雷雲とうさ耳

お笑いとジェンダーと雑多なお気持ちと少しだけ旅。

正直は美徳なのか

 

正直は美徳、とよく言われている気がする。

と同時に、正直に生きたら人間関係が破壊される、と考えている人も多い気がする。

 

すごく一般的な人間関係において、私はあまり正直なほうではないと思う。というと勘違いを生みそうなのだが、私自身はかなり「自分自身」でいるつもりだし、その時その時の反応も、素直に体から出たものに従っていると思う。でも、根本的に、私は、誰かの前に出るとその「誰か」用の自分になってしまう

たとえば、Aさんと話す時、私は恋愛の話題が大好きな女子大生になる。彼女の彼氏に対する愚痴や、いわゆる「理不尽な女心」に「そう!理屈じゃないんだよ!なーんでわかんないかな、もう!」みたいな感じになる。事実、そういう部分は自分の中にもあるし、Aさんの話に私はひどく納得する。Bさんと話す時、私は「常に理性的じゃないといけないし、理性的じゃない瞬間ができたら女子って話聞いてもらえなくなるよね」みたいな話を真剣にする。理屈じゃない女心について話していたはずの人間が、当たり前のように「一瞬でも理性的でないと、特に女は、感情的な生き物としてしか話聞いてもらえなくなるよね」みたいな話をする。大変な矛盾のような気もするのに、私は一度も嘘をついていないし、それはすべて一連の自分という人間である。

どう説明したらいいのだろう。相手に合わせて、自分の中のある部分が肥大化して出てくる、と言った方が正しいかもしれない。文学好きのあの子と話す時は文学好きな自分に。くだらない話で盛り上がる相手に対しては死ぬほどふざける自分に。

そして私は、そうである方が大人なのだと、それがきちんとした人間のすべき人付き合いなのだと、思ってきた。でも、それは本当に人間関係なのか?人間同士が築く関係性と言えるのか?甚だ疑問に思えてくる。無意識のうちに言うべき言葉を飲み込んで、自分の中の小さな引っ掛かりとして見なかったふりをして処理していく。多分楽だと思う。面倒事は起こさないのが一番。仕事とか、他の娯楽とか、やりたいこと、やるべきことは沢山あるのに、人間関係の茨の道を自ら進んでいこう、などと誰が思えるのだろうか。と同時に、「人間どうしの関係」を持たないでい続ける人生なんて、どこかでむなしくならないのだろうか、とも思う。人間はいつもお互いに完全にわかりあうことなんてできなくて寂しいから、表面だけでもわかりあったふりをしよう。だなんて、一番寂しくないだろうか。私はそうは思わないけど、あなたの意見をわかりたいし、わかりたいから説明してほしい、という態度の方がよっぽど誠実なのではないだろうか。

そんな綺麗ごとを並べて何になる?平和に過ごすのが一番、という人もいるかもしれない。私もそう思っていた。でも、何でかは上手く言えないけれど、そうやって考えることを放棄したらいけない気がするんだ。私もそうだし、日本であまりにも考える機会の少ない教育を受けてきたら、考えることってすごく面倒で、考えなくても生きていけるのならそっちに流れてしまいたくなると思う。でも、それって人間関係に対する思考の放棄だ。そして、放棄された対象に対する冒瀆だ

こんなセリフを聞いたことがある。「恋人関係なんて、お互いに本当のことなんて何も言わなければ続くもんだよ。」「男の方が言いたいこと我慢すれば続くよ。」続くもんか。我慢してるんだから。そんないびつな関係性が続くわけがない。我慢されたら相手が我慢しているかどうかなんてわからない。わからないものは認識できない。もしお互いに我慢していたら、(相手の不満は見えないので)自分ばっかり我慢している、となるだろうし、片方が我慢していたら言いたいことを言っている方は「こいつ不満全然言わないな、これでいいんだな」と思うし、我慢している側は「こんなに我慢しているのにどうしてこんなに文句を言われなければならないのか」と不満をため込むことになるだろう。

という思考に基づいて、私はこと「とりわけ近しい関係性」においてはなるべく正直に生きることを決めている。しかし、ここにも難しさはある。そこに私が「正直は美徳なのか」と問いたくなる理由がある。

まず、正直になることによって引き起こされる論争は全く美しくない。正直になることは、相手を褒めることでもあるし、相手に対して指摘することでもある。正直に褒めるのはすごくいいことだ。しかし、正直に指摘する(それは客観的に悪い面である場合も、主観的に「やらないでほしいこと」の指摘だったりもする)ことは、時に論争や、あまり生産的でない喧嘩めいたものを生み出す。次に、この点が問題なのだが、一度指摘をしだすと、手が止まらなくなる。人間は完ぺきではない。完璧にはなれない。だから、気になったことを指摘するわけだが、気になることはどんどん、日々の細かいことから大きな問題まで多岐にわたるようになる。そうすると、争う回数は多くなるし、相手に対し最初は効力を持っていた指摘が日常化して、効力を持たなくなる。考えてほしいから指摘していたはずなのに、気が付いたら指摘されても何も思わない人間に指摘していく構図が生まれてしまうのである。百歩譲って、争う回数が増えることはよしとしよう。それでも、三日おきのレベルで争っていると、心身が疲弊して今度は自分の方が「あれ、私何でこんなことで争っているんだ」と我に返りだす。こうなってしまうと関係性を築くのは困難だ。

 

つまりどうしたらいいのだろうか。答えは、私も持っていない。その時その時のお互いの関係性に聞くしかないし、聞いたところでわかるはずもない。私は、お互いがお互いの言うことに耳を貸し、それぞれで、時に二人で、お互いの関係性について考えて築き上げていくことができる関係性が理想だと思う。友人関係と呼ばれるものでも、恋人関係と呼ばれるものについてでも、関係ないと思う。

理想の関係性についても、書きたいことが沢山ある。が、今日の所はこれくらいにして、この混迷に満ちたジェットコースターみたいな文章の筆をおきたいと思う。