雷雲とうさ耳

お笑いとジェンダーと雑多なお気持ちと少しだけ旅。

「普通」でありたいと望むこと

普通でありたいと思っていた。普通のまま、皆の中に埋もれ、誰にも迷惑をかけず、ただ家族を養い、更に自分の後の世代に続けていく。誰からも絡まれたりせず、嫉妬もされず、馬鹿にもされず、「普通に」友達がいて「普通に」恋人がいる人生。将来は「普通に」結婚し「普通に」子供を産んで「普通に」育てていく。
特に幼い頃は「普通」に憧れを持っていた。それはおそらく、親から「普通の人ができることがどうしてできないの」と言われてきたから。「普通」は必ず私よりも上の存在だった。私が怒られるのは、私が家に居場所がないのは、私が上手く人間関係を築けないのは、私が「普通」未満の存在だから。そうか、私が悪いのか。どうしたら「普通」になれるだろう。どうしたら、母親の望むような「普通」の人間になれるんだろう。そう思っていた。
事実、私は普通ではなかったのかもしれない。でも、言葉の魔法というのは存外に大きい。私は普通であるために、意見を表明しなくなった。表明しなくなったら意見を持てなくなった。私は普通であるために、その場に適応して生きていくことを覚えた。適応して生きていたら、本当に一個の確立した自己というものがどこにもなくなってしまった。私は、21にもなって、まだ私が誰なのかわかっていない
でも、今私が意見発信をできているのは、きっと私が「普通」の土俵に立つことが出来たから。自分で自分を「意見を発信してもいい人間だ」と認めることができたからだと思う。とはいえ、「普通」の足かせがなかったら、もう少し自分の意見を持てる、その場で相手に合わせたりしない人間になれたかもしれない、というのはタラレバに過ぎないか。
普通ってなんだろう。古くから現代まで、古今東西の哲学者やら作家やら科学者やらが考えてきた疑問を、一介の大学生の私が、今考えてみる。普通であることは難しい。難しいのに褒められない。まるで家事労働みたいだ。そうか、だって家事労働も「普通」だもんな。普通でないと、いろんな人から否定される。「それはちがうよ〜」と笑われる。私は結局、普通でいたかったんじゃなくて、誰にも頭ごなしに否定されたくなかっただけだったんだ。みんな頭ごなしに否定されるなんて嫌だから、普通でいたいのかもしれない。
でも、普通でいようとしても、結局は傷つくし、それなりに否定もされるし、生きてきた環境が違うんだから当たり前のことだが、全ての人が共有する「普通」観なんてあるわけがない。お互いに普通であろうとしても、逸脱していく。じゃあ普通なんて無理じゃん。
そう、無理なんだ。完全に普通になることなんてできない。だって「完全な普通」なんてものは存在しないから。
それならば。目指すところのものが存在しないならば。私は、私達は、「普通」を目指す必要が無い。そう思えれば、少しでも「普通」の呪縛から解き放たれるんじゃないだろうか。「普通」でないと嫌われる。はなっから嫌われることもあると思っていれば、行動の幅も広がる気がする。
「嫌われる勇気」ってこういうことなんですかね、アドラーさん。