雷雲とうさ耳

お笑いとジェンダーと雑多なお気持ちと少しだけ旅。

置いていかなければならないもの、忘れたくないこと

突然の告白で失礼するが、私はYouTuberが好きだ。YouTuberといえば、平成の時代を象徴する、新しい形のエンターテイメントであり、新しい職業と言って構わないだろう。ここからはしばらく私のヲタ文にお付き合いいただきたい。

 

私の好きなYouTuberは、現在のところ大きく二組だ。初めて大好きになって、心の底から尊敬しているYouTuber、水溜りボンド。そして、可愛くて仕方ない同年代のYouTuber、アバンティー。(皆さんのお勧めも教えてください。)

 

元々お笑いが好きだった私は、好きな芸人さんの動画を既に100周はして口ずさめる、くらいの状態だった。そんな時に、一年前くらいに聞いた友達の「ウチ、水溜りボンド結構好きだわ」という一言を思い出し、はいはいYouTuberね、どんなクオリティのもんですかとかなりの上から目線で動画を一本タップした。

https://www.youtube.com/watch?v=YbV_1zgR5VY

この動画である。この動画が完全に沼の始まりだった。え、面白いじゃん。というところから始まって、関連動画の嵐。一生終らないんじゃないかと思った。一日に数十本見切ったあたりで気づいた。一生見終わらない。彼らは、2015年から毎日、一日も欠かさず毎日動画を投稿し続けている。「どうせ毎日とか言いつつ休んでるんでしょ」と思ったあなた。彼らは本物の変態なので一日に三本出すことはあっても一日にゼロ本という日は存在しないのです。

ちなみに、一分の動画を編集するのに、初心者の私は三時間かかりました。彼らでも一本の動画を編集するのに四時間から六時間くらいはかかるらしい。動画だけでなく大きなイベントも運営し、109とコラボを果たし、小さなライブ会場でトークライブも行っている彼らに、休みどころか睡眠時間はあるのだろうか。コンビなのに、10人位はいそうな稼働率である。5人ずついるんだろうか。「休んでますよ!」とは言っているし、やりたいことを楽しみながらやっている二人だから、精神的には休みの必要を感じていないかもしれないが、体力的には辛い時もあるに違いない。

置いていかなければならないもの

私は名前くらいしか存じ上げていなかったクリエイターさんだったが、すごく才能あふれるwowakaさんという方が過労で亡くなったのは今でも記憶に新しい。私がその訃報を聞いて最初に思ったのは、「水溜りの二人は大丈夫なんだろうか」ということだった(人間こんなもんだとは思うけど改めてひどい)。彼らは真面目だし、その訃報を受けて思う所があったのか、その日の動画で「ちゃんと休みを作っていきつつ、より向上していこう」という動画を出してくれた。そういうところが私が大好きなところであり、心配なところでもあるのである。

「YouTuberは遊んでお金を稼いでいる」「好きなことをして生きている」という批判は、その言葉自体は確かに正しいと私は思う。しかし、誤解しないでほしい。彼らは「全力で」遊んでいるのだし、「好きなことをして生きる」ことは「努力しないで生きる」ことではない。まして、「YouTuberは人に迷惑をかけたり人をおちょくったりしてへらへらしている現代の若者像」を体現しているわけではない。「新時代のメディアの先駆者」なのだ。

「好きなことをして生きる」が努力にカウントされない時代

YouTuberなんて、好きなことをして生きているんだから職業として認められるべきではない、という人は努力の意味をはき違えている。努力とは、辛くて苦しいもののことのみを指すのではなく、楽しいもののことだって指すのではないだろうか。勉強が楽しくていっぱい勉強して数学オリンピックに出た小学二年生の男の子は、努力していないの?趣味を始めた時に楽しくて時間も忘れて練習したあなたは、努力しないでここまでできるようになったのかな。そんなことはないはずだ。

おそらく、YouTuberが評価されない理由の一つに、コストの割に人気や収入を得ているように見えることがあるだろう。それでも、彼らの動画の一つ一つの編集や、一つ一つの企画にかける金銭・時間・労力をよく見つめたら、そんな言葉は、少なくとも侮蔑としての「好きなことをして生きていていいなぁ」は吐けなくなると思うのだ。

もう一つ、YouTuberが批判される理由としては、「俺/僕/私でもできそうなことやってるのにちやほやされている」というのがあるかもしれない。しかし、少し考えてみればわかる通り、彼らは「本当にすべてを」自分の力でやらなければならない。企画者になり、撮影者になり、統率者になり、出演者になり、運営者になり、編集者になり、視聴者の良き友人となる。彼らが当たり前に行っている仕事は、見えるだけでもこれだけ、見えないところにもたくさんあるのだろう。そう思ったら、その一つ一つの仕事自体が「自分でもできそう」なものであっても、全体としての完成度としてそこに到達するのがどれほど難しいことかわかるはずだ。

「辛くて苦しいこと(に見えること)だけを評価する時代」、そして、「見えるものだけを評価する時代」はそろそろやめにしようや。と、自分の過去を反省しながらも思うわけです。新しいものを素直に好きだというのは、まだ若者であるはずの自分にとっても難しい。何も考えずに斜に構えた方が楽なんだが、一旦頭をまっすぐに戻した方が、きっとまっすぐな世界が見えてくるんだよね。斜に構えるって言葉を作った人は天才だな。

忘れたくないこと

アバンティーの話をしよう。おそらく水溜りボンドよりも知名度は低いと思われるので、きちんと説明しておこう。彼らは四人組のかわいらしいルックスの男性YouTuberで、全員埼玉出身の幼馴染である。非常に仲が良く、いつも楽しそうな動画を撮っている。企画も面白いうえで、その四人のたのしそうな雰囲気についつい頬が緩んでしまう女子大生なのである。

私が最初に「アバンティーズいいじゃん!!」と思った動画はこれである。

https://www.youtube.com/watch?v=tKRkrvZiacA

かわいい。

非常にかわいい、同年代の、男性グループYouTuberたちである。しかし、彼らは今、大きな試練に立ち向かっているのである。

日本ではそこそこ大きく報道されたのでご存じの方もいるかもしれないが、アバンティーズの四人のうちの一人であるエイジくんは、三か月前にサイパン無人島で、事故によって亡くなった。これは、一部で噂になったような遊泳禁止区域の事故などではなく、きちんとガイドをつけ、安全に配慮した上で起きた不慮の事故だった。「YouTuberだからどうせ」「派手な見た目だからどうせ」と、勝手なイメージとレッテルを貼り付け、そのイメージを再生産するような噂が独り歩きする社会も、そろそろ平成に遺していきたい遺物ではないかと思う。

事故の後、残された三人が出した動画は、事故の経緯説明と、その説明が遅くなったことへの謝罪の動画だった。彼らは何度も、「こうして説明が遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。」と言っていた。なぜ謝るのか、誰に謝るのか、本来「なんで!」と泣き叫んでいいはずの立場の彼らがどうして粛々と謝らなければならないのか、日本社会はいつもこうだ、と悔しさと怒りがこみあげてきてどうしようもなくなった。なぜ、本来謝るべき立場の人間でない人が、表舞台に出て謝るのか。その問題は、昨年から幾度となく提示されてきた問題だろう。

それでも彼らは、約一か月の期間を経て、再びアバンティーズとして活動を再開することを決意した。どれほど重い決断だったか、私たちにははかり知ることのできない、想像すら及ばない大きな思いを乗り越えて、彼らは今まで以上におバカな動画をいっぱい撮っている。彼らは、どうやらいつまでも、ずっと、四人みたいだ。

YouTubeは、彼のあらゆる姿を残している。全てではないけれど、おそらく、我々のような「普通の」人が残すよりも多くの、そして仲間同士の間の自然な姿を残している。まるでまだ彼がそこにいることが当たり前のことであるかのように。そのことは「彼が亡くなった」という事実を信じたくない人にとっては甘い毒になるし、彼の死を受け入れた人にとっては彼の死を更に色濃く意識させるもので、確かに「良くない」面もあるかもしれないとは思う。それでも、「二回目の死」からは遠ざかるわけである。ご存じだろうか。人は二回死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目はすべての人の記憶から失われた時。彼がすべての人の記憶から消えることは、YouTubeというコンテンツが存在し続ける限りは、ないのではないか。

乗り越えなければいけない。でも、忘れたくはない。人はいつか死ぬ。ソクラテスも死んだ。それでも、一人一人の人間の死は、確かにその個人が生きた証で、その証を忘れることなく、残された人間は歩み続けなければならない。死は一様じゃない。現象としては同じでも、一人一人の死はやっぱり違う、全く異なるものだ。視聴者や多くの人々は、彼の死を、コンテンツとして消費し、忘れていくことだろう。それが世間の流れであり、ある程度は仕方のないことである。それでも、私は彼だけでなく一人一人に確かに歴史と物語が存在したこと、そして存在していることを体の奥底で「わかっている」ことができる人間でいたいし、そういう意味で彼の死は「忘れたくない」ものだと思う。