雷雲とうさ耳

お笑いとジェンダーと雑多なお気持ちと少しだけ旅。

演技実践のOBOG授業に行って言われて嬉しかったことと感じたことをただメモとして残しておく。

野方にあるボビー先生のスタジオに向かいながら私は心ここに在らずだった。

3年前に履修した演技実践の授業は、東大の自主ゼミで行われたもので、私は1回目の授業に出ることすら実はできていなかった。2回目の授業が始まる前にその授業の存在を知り、TAの方にメールで頼み込んだところ「キャンセルが出たので大丈夫ですよ」と言われて履修することができたものだ。

あの時は卒論を書いている時期で、ほとんど授業もなく、ひたすらPCの前にいた。コロナ禍でみんなの心に閉塞感が漂っていた。だからこそ、なのか、それでも、なのか。就職を前に私は「最後に、どうしても演技がやりたい」という気持ちを抑えきれずにいた。私の中では最後のチャンスだった。演劇と、自らが演る側として関わる最後のチャンス。そしてその認識はおそらく正しかった。

授業の中で、私は親友への手紙を読んで号泣したり、新卒で就職した会社に入ってうまく行かなかった人を演じたり、なんだか本当に夢のような時間を過ごした。私の中にこんなにでっかい感情が埋もれていた、ということを認識したこと自体が初めてだった。

ZOOMで行われた演技実践の授業は、私の心をすごく癒したし、同時に「演じる」という型に囚われすぎていた私の演技に対する認識に、風穴を開けた。私が家で「じゃあ今日は『振られそうだけどプライドが邪魔して本当の気持ちを全部言えない人』の気持ちでいよ〜」みたいに、趣味としてやっていたアレが実は演技で、舞台の上で人目を気にしながら歌って踊っていた中高時代のアレはボビー先生に言わせれば「能や狂言と同じで型をそのまま演っている」だけだった、ということを理解した。

だからこそ、私は今回、卒業生向けレッスンに行くのも少し怖かった。就職してどれだけ私は人目を気にしただろう。あるいは、就職したこと自体が、人目を気にしてのことだったような気もする。

嫌いな人やよく知らない人からの誘いを「いつか好きになれるかもしれない」と断らない私は、少なくとも人間関係においては人目を気にしている。それだけは確かだ。

と同時に、私は仕事を辞めて予備試験の勉強をしている身で、それはもうほとんど勉強を通してギャンブルをやっているとしか言えない状態なわけで、私は今、自分が人目を気にしているのか気にしていないのかももう本当によくわからず、自分でも自分のことがわからない、と言って良いと思う。無職だし。無職が人目気にしてんじゃねえよという話ではある。でも無職だからさ、今殺されたり犯罪に巻き込まれたりしたらニュースに「○○・25歳・無職」とか、「○○・25歳・家事手伝い」とか、「○○・25歳・自称ライター」とか書かれるんだぜ、ちょっと気になるよね。気にならん?

まぁそれはよくて。置いておいて。

私は、せっかく外に出るし、レッスン前にライティングのネタでも探そうと思って野方商店街をぶらぶらしてたんだけれど、どの店も入りにくくて、結局松屋に入ってビーフカレーを食べた。こういうところも人目気にしてるんだなぁ。でも松屋で食べた初めてのビーフカレーはすごく美味しかった。味噌汁もめちゃくちゃ美味かった。普通に580円じゃもったいないくらいの値段だった。チップを払わせろ!!!CoCo壱のカレーも美味しそうだったけど。

そしてレッスン開始30分前くらいに食べ終わってしまい、「このまま行って先生と2人とかになっても気まずいなぁ」と思いながらまた商店街をぶらつき、15分経ってからレッスンに行った。でも商店街の同じところをぐるぐる歩くと不審がられそうで、人のいない住宅街まで行ってしまった。やはりめちゃめちゃ人目を気にしている。

人目を最大限に気にしながら行ったレッスンで、私は多分ひどく緊張していたと思う。自己紹介でもオヤジギャグ言って1人で笑っていたし、ヤバいな。こう書くと逆に変な人じゃん。おかしなやつだと思われただろ絶対。なんかこう、緊張しすぎると思ってもないこと言っちゃいません?私は思いついたオヤジギャグが口から出てくるのを止められなくなるんですよ。恥ずかしいやつめ。

自己紹介が終わり、いよいよレッスンが始まった。

カレーの酸味だけが口の中に残っていて、麦茶でそれを流し込みながら、「レペティション」を見る。

「レペティション」とは、相手を観察して言ったセリフを相手も繰り返すこと。それをひたすら互いに続けていく。

A「あなた、見てる」

B「私、見てる」

A「あなた、見てる」

B「私見てる」

B「あなた…笑った。」

A「私、笑った。」

B「あなた笑った!」

A「あなたも笑ってる」

みたいに、ひたすら相手のちょっとした変化を口に出し、自分でもそれを繰り返し、自分の中の何ものかを少しずつつかんでいき、相手と繋がっていくレッスンである。

これ、見ていても不思議と飽きない。人と人が何か繋がりを得ていく様は面白い。そして何かが琴線に触れて泣き出す人もいる。怒る人もいる。それも不思議で、でも只中にいればそれは「わかる」ことだったりする。

私はたまたま知り合いの先輩がいらしていたので、その先輩とペアを組み(というか先生が面白がって私たちをペアにした)、最後に回された。ずっと「なんか難しそうだな」と思っていたし、見られながら人と対面で喋るのはさぞかし恥ずかしかろうと思っていた。

でも、いざ自分がやってみると本当に、「周りが見えなくなる」ってこういうことなんだなと思った。「あなた見てる」「私見てる」「あなた見てる」「私見てる」を繰り返すうちに、本当に相手以外の何もかもが見えなくなっていく。相手の存在に自分自身がどんどん吸い込まれていき、相手も自分に吸い込まれていく。相手が楽しそうにしていないと寂しくて、相手が笑っていると嬉しい。褒められると嬉しくて、褒めても嬉しい。素直な感情だけが自分の中を充たしていく。

いつしか、先輩は泣いていて、私はすごく驚いたんだけど、「あなた泣いてる」「私泣いてる」「あなた泣いてる」「私泣いてる」と繰り返している間に、心配な気持ちとは裏腹にいつしか勝手に目の中に涙が溜まってきて、2人で泣いてしまった。すごかった。これが共鳴か。共感とかじゃなかった。感情すら通していない気がした。共鳴だった。ちょっとだけミッドサマーを思い出した。あれはやっぱりメリーバッドエンドでもなくてハッピーエンドだったのかもしれない。

共鳴は、ものすごく気持ちよかった。周りの人はあれ、怖いらしいんだけど、私はひたすら気持ちがよくて、ちょっと悪いな…という気持ちにすらなった。みんなが怖がっているものを私だけが気持ち良いと思っているのは、ちょっとアレよね。不公平な感じがするし、ちょっと加害者っぽい。しょうがないんだけど。

先生に「あなたは感受性が豊かなんだね。そしてとても柔らかい。素直なんだね。辛さを全部引き受けたんだね」と言われた。私って豊かで柔らかい感受性を持ってる〜!!!!!!!!!と久々に気がついた。そういえばそうでした。嬉しいね。レペティションをやった後だったからもう本当に褒め言葉が素直に響いて、そのまんま「嬉しい」という気持ちだけで受け取った。社会性フィルターを通さない褒め言葉ってこんなに素直に嬉しがれるものなのね。

そしてシーン(事前に渡されていたセリフを演じる)では、それぞれの人たちの演技を見るのがこれまた面白い。本当に短い時間なんだけど、最初のうちはセリフに感情を阻まれている人たちが、どんどん感情の後にセリフを話すようになっていくようになるのがわかる。こんな変化を、こんな特等席で見させてもらっちゃっていいんですか?というくらい、一つ一つのグループの変化が気持ちよくて、見ているだけでエネルギーが感じられて、気圧されながらもやっぱり元気になっていった。

演劇部最後の大会で部員がコロナになってしまい、それを先生に言うか言わまいか部長と副部長が押し問答をする、という場面だった。私は、先ほどレペティションを一緒にやった先輩とまた組まされた。

私が部長(私が部長!?)をやり、先輩が副部長をやり、私は人生で初めて「人と合わせるセリフ」が気持ち良いものだということを知った。ずっと、シーンの台本を渡された時から「こう演じたらかっこいいだろう」「こう演じたら『ぽい』だろう」という理想が存在する状態で演じる私としては、大体において人と合わせると理想通りに行かなくてイライラしてしまいがちである。いやなんでその間やねん、とか、アホかそんな言い方されてそんなこと言えるわけなかろう、とか、そういうノイズが気になる。

でも、今回は全く違った。自分をどう見せるか、自分をどう見せたら伝わりやすいか、そういうのを一回全部度外視して、副部長の言う言葉に「反応」する自分がいた。部長は私が想像していたよりも、結構勢いで喋っちゃうタイプの熱い女なんだ、ということを私は人と合わせることによって初めて知った。もっと意地悪で冷静なのかと思ってた。

私が今演っている『私』ってこういう人間なんだ、という気づきで目の前が弾けて、レペティションの時と同様、やっぱり人に見られていることに意識が少しも向かなかった。人に見られている、と思うから演じることが楽しくなくなるんだ、ということがよくわかった。

先生にはまた「柔らかいねあなたは」「ちゃんと相手の言葉に反応できてる、聞けてるね」「女優さん目指さないの?(冗談)」と言ってもらえて私は嬉し〜!と飛び上がって喜び、おかきをもらって先輩と後輩と3人で並んで高円寺まで歩いて帰りました。

あと場に存在していた人たちが全員めっちゃよかった。こんなことあるんだ。すごいね。大人になってからの出会いに感謝。

あたくしのポートフォリオ

夏になったので、あたくしのポートフォリオを作ります。

 

note

noteの記事は、何やってもいいんだなと真面目に、好きにやっているので私らしさがよく出ています。この何を始めても全く続かない感じ。大学を卒業してから全く編集してません。あれまぁ。

HOKU|note

キャリコネニュース

新卒で入った会社を辞めて、最初に雇ってくれたのがここ。
何の経歴もない私を、「なんか面白そう」と言ってくれた編集部の方々に頭が上がりません。

HOKU | キャリコネニュース

かがみよかがみ

まだまだセンシティブだった頃の私が書いた作品群。センシティブを卒業し、文章にお金をもらいたくなったので辞めました。でも気に入ってる作品もたくさんあるんだなこれが。

HOKU記事一覧 | かがみよかがみ

Noise
セクシュアルマイノリティLGBT関係のライティング記事(特に当事者のもの)を専門で載せている貴重なメディア。記事数が増えているので、全ては載せられないですが、いくつかお気に入りを載せておきます。

アセクシュアルやアロマンティックかもしれない、と悩むあなたにおすすめしたい物語|LGBTメディアNOISE(ノイズ)

「恋」をしない私が行き着いた、ひとつの言葉は「アロマンティック」|LGBTメディアNOISE(ノイズ)

天狼院書店
ライティングゼミで好きに書いて選ばれた記事です。
美味しいものが好きなことを再認識しました。

プリン、愛すべきすっぴんの姫君 | 天狼院書店

パッケージがだっさいお菓子の魅力が世界中に気づかれてほしい | 天狼院書店

置いていかなければならないもの、忘れたくないこと

突然の告白で失礼するが、私はYouTuberが好きだ。YouTuberといえば、平成の時代を象徴する、新しい形のエンターテイメントであり、新しい職業と言って構わないだろう。ここからはしばらく私のヲタ文にお付き合いいただきたい。

 

私の好きなYouTuberは、現在のところ大きく二組だ。初めて大好きになって、心の底から尊敬しているYouTuber、水溜りボンド。そして、可愛くて仕方ない同年代のYouTuber、アバンティー。(皆さんのお勧めも教えてください。)

 

元々お笑いが好きだった私は、好きな芸人さんの動画を既に100周はして口ずさめる、くらいの状態だった。そんな時に、一年前くらいに聞いた友達の「ウチ、水溜りボンド結構好きだわ」という一言を思い出し、はいはいYouTuberね、どんなクオリティのもんですかとかなりの上から目線で動画を一本タップした。

https://www.youtube.com/watch?v=YbV_1zgR5VY

この動画である。この動画が完全に沼の始まりだった。え、面白いじゃん。というところから始まって、関連動画の嵐。一生終らないんじゃないかと思った。一日に数十本見切ったあたりで気づいた。一生見終わらない。彼らは、2015年から毎日、一日も欠かさず毎日動画を投稿し続けている。「どうせ毎日とか言いつつ休んでるんでしょ」と思ったあなた。彼らは本物の変態なので一日に三本出すことはあっても一日にゼロ本という日は存在しないのです。

ちなみに、一分の動画を編集するのに、初心者の私は三時間かかりました。彼らでも一本の動画を編集するのに四時間から六時間くらいはかかるらしい。動画だけでなく大きなイベントも運営し、109とコラボを果たし、小さなライブ会場でトークライブも行っている彼らに、休みどころか睡眠時間はあるのだろうか。コンビなのに、10人位はいそうな稼働率である。5人ずついるんだろうか。「休んでますよ!」とは言っているし、やりたいことを楽しみながらやっている二人だから、精神的には休みの必要を感じていないかもしれないが、体力的には辛い時もあるに違いない。

置いていかなければならないもの

私は名前くらいしか存じ上げていなかったクリエイターさんだったが、すごく才能あふれるwowakaさんという方が過労で亡くなったのは今でも記憶に新しい。私がその訃報を聞いて最初に思ったのは、「水溜りの二人は大丈夫なんだろうか」ということだった(人間こんなもんだとは思うけど改めてひどい)。彼らは真面目だし、その訃報を受けて思う所があったのか、その日の動画で「ちゃんと休みを作っていきつつ、より向上していこう」という動画を出してくれた。そういうところが私が大好きなところであり、心配なところでもあるのである。

「YouTuberは遊んでお金を稼いでいる」「好きなことをして生きている」という批判は、その言葉自体は確かに正しいと私は思う。しかし、誤解しないでほしい。彼らは「全力で」遊んでいるのだし、「好きなことをして生きる」ことは「努力しないで生きる」ことではない。まして、「YouTuberは人に迷惑をかけたり人をおちょくったりしてへらへらしている現代の若者像」を体現しているわけではない。「新時代のメディアの先駆者」なのだ。

「好きなことをして生きる」が努力にカウントされない時代

YouTuberなんて、好きなことをして生きているんだから職業として認められるべきではない、という人は努力の意味をはき違えている。努力とは、辛くて苦しいもののことのみを指すのではなく、楽しいもののことだって指すのではないだろうか。勉強が楽しくていっぱい勉強して数学オリンピックに出た小学二年生の男の子は、努力していないの?趣味を始めた時に楽しくて時間も忘れて練習したあなたは、努力しないでここまでできるようになったのかな。そんなことはないはずだ。

おそらく、YouTuberが評価されない理由の一つに、コストの割に人気や収入を得ているように見えることがあるだろう。それでも、彼らの動画の一つ一つの編集や、一つ一つの企画にかける金銭・時間・労力をよく見つめたら、そんな言葉は、少なくとも侮蔑としての「好きなことをして生きていていいなぁ」は吐けなくなると思うのだ。

もう一つ、YouTuberが批判される理由としては、「俺/僕/私でもできそうなことやってるのにちやほやされている」というのがあるかもしれない。しかし、少し考えてみればわかる通り、彼らは「本当にすべてを」自分の力でやらなければならない。企画者になり、撮影者になり、統率者になり、出演者になり、運営者になり、編集者になり、視聴者の良き友人となる。彼らが当たり前に行っている仕事は、見えるだけでもこれだけ、見えないところにもたくさんあるのだろう。そう思ったら、その一つ一つの仕事自体が「自分でもできそう」なものであっても、全体としての完成度としてそこに到達するのがどれほど難しいことかわかるはずだ。

「辛くて苦しいこと(に見えること)だけを評価する時代」、そして、「見えるものだけを評価する時代」はそろそろやめにしようや。と、自分の過去を反省しながらも思うわけです。新しいものを素直に好きだというのは、まだ若者であるはずの自分にとっても難しい。何も考えずに斜に構えた方が楽なんだが、一旦頭をまっすぐに戻した方が、きっとまっすぐな世界が見えてくるんだよね。斜に構えるって言葉を作った人は天才だな。

忘れたくないこと

アバンティーの話をしよう。おそらく水溜りボンドよりも知名度は低いと思われるので、きちんと説明しておこう。彼らは四人組のかわいらしいルックスの男性YouTuberで、全員埼玉出身の幼馴染である。非常に仲が良く、いつも楽しそうな動画を撮っている。企画も面白いうえで、その四人のたのしそうな雰囲気についつい頬が緩んでしまう女子大生なのである。

私が最初に「アバンティーズいいじゃん!!」と思った動画はこれである。

https://www.youtube.com/watch?v=tKRkrvZiacA

かわいい。

非常にかわいい、同年代の、男性グループYouTuberたちである。しかし、彼らは今、大きな試練に立ち向かっているのである。

日本ではそこそこ大きく報道されたのでご存じの方もいるかもしれないが、アバンティーズの四人のうちの一人であるエイジくんは、三か月前にサイパン無人島で、事故によって亡くなった。これは、一部で噂になったような遊泳禁止区域の事故などではなく、きちんとガイドをつけ、安全に配慮した上で起きた不慮の事故だった。「YouTuberだからどうせ」「派手な見た目だからどうせ」と、勝手なイメージとレッテルを貼り付け、そのイメージを再生産するような噂が独り歩きする社会も、そろそろ平成に遺していきたい遺物ではないかと思う。

事故の後、残された三人が出した動画は、事故の経緯説明と、その説明が遅くなったことへの謝罪の動画だった。彼らは何度も、「こうして説明が遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。」と言っていた。なぜ謝るのか、誰に謝るのか、本来「なんで!」と泣き叫んでいいはずの立場の彼らがどうして粛々と謝らなければならないのか、日本社会はいつもこうだ、と悔しさと怒りがこみあげてきてどうしようもなくなった。なぜ、本来謝るべき立場の人間でない人が、表舞台に出て謝るのか。その問題は、昨年から幾度となく提示されてきた問題だろう。

それでも彼らは、約一か月の期間を経て、再びアバンティーズとして活動を再開することを決意した。どれほど重い決断だったか、私たちにははかり知ることのできない、想像すら及ばない大きな思いを乗り越えて、彼らは今まで以上におバカな動画をいっぱい撮っている。彼らは、どうやらいつまでも、ずっと、四人みたいだ。

YouTubeは、彼のあらゆる姿を残している。全てではないけれど、おそらく、我々のような「普通の」人が残すよりも多くの、そして仲間同士の間の自然な姿を残している。まるでまだ彼がそこにいることが当たり前のことであるかのように。そのことは「彼が亡くなった」という事実を信じたくない人にとっては甘い毒になるし、彼の死を受け入れた人にとっては彼の死を更に色濃く意識させるもので、確かに「良くない」面もあるかもしれないとは思う。それでも、「二回目の死」からは遠ざかるわけである。ご存じだろうか。人は二回死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目はすべての人の記憶から失われた時。彼がすべての人の記憶から消えることは、YouTubeというコンテンツが存在し続ける限りは、ないのではないか。

乗り越えなければいけない。でも、忘れたくはない。人はいつか死ぬ。ソクラテスも死んだ。それでも、一人一人の人間の死は、確かにその個人が生きた証で、その証を忘れることなく、残された人間は歩み続けなければならない。死は一様じゃない。現象としては同じでも、一人一人の死はやっぱり違う、全く異なるものだ。視聴者や多くの人々は、彼の死を、コンテンツとして消費し、忘れていくことだろう。それが世間の流れであり、ある程度は仕方のないことである。それでも、私は彼だけでなく一人一人に確かに歴史と物語が存在したこと、そして存在していることを体の奥底で「わかっている」ことができる人間でいたいし、そういう意味で彼の死は「忘れたくない」ものだと思う。

 

正直は美徳なのか

 

正直は美徳、とよく言われている気がする。

と同時に、正直に生きたら人間関係が破壊される、と考えている人も多い気がする。

 

すごく一般的な人間関係において、私はあまり正直なほうではないと思う。というと勘違いを生みそうなのだが、私自身はかなり「自分自身」でいるつもりだし、その時その時の反応も、素直に体から出たものに従っていると思う。でも、根本的に、私は、誰かの前に出るとその「誰か」用の自分になってしまう

たとえば、Aさんと話す時、私は恋愛の話題が大好きな女子大生になる。彼女の彼氏に対する愚痴や、いわゆる「理不尽な女心」に「そう!理屈じゃないんだよ!なーんでわかんないかな、もう!」みたいな感じになる。事実、そういう部分は自分の中にもあるし、Aさんの話に私はひどく納得する。Bさんと話す時、私は「常に理性的じゃないといけないし、理性的じゃない瞬間ができたら女子って話聞いてもらえなくなるよね」みたいな話を真剣にする。理屈じゃない女心について話していたはずの人間が、当たり前のように「一瞬でも理性的でないと、特に女は、感情的な生き物としてしか話聞いてもらえなくなるよね」みたいな話をする。大変な矛盾のような気もするのに、私は一度も嘘をついていないし、それはすべて一連の自分という人間である。

どう説明したらいいのだろう。相手に合わせて、自分の中のある部分が肥大化して出てくる、と言った方が正しいかもしれない。文学好きのあの子と話す時は文学好きな自分に。くだらない話で盛り上がる相手に対しては死ぬほどふざける自分に。

そして私は、そうである方が大人なのだと、それがきちんとした人間のすべき人付き合いなのだと、思ってきた。でも、それは本当に人間関係なのか?人間同士が築く関係性と言えるのか?甚だ疑問に思えてくる。無意識のうちに言うべき言葉を飲み込んで、自分の中の小さな引っ掛かりとして見なかったふりをして処理していく。多分楽だと思う。面倒事は起こさないのが一番。仕事とか、他の娯楽とか、やりたいこと、やるべきことは沢山あるのに、人間関係の茨の道を自ら進んでいこう、などと誰が思えるのだろうか。と同時に、「人間どうしの関係」を持たないでい続ける人生なんて、どこかでむなしくならないのだろうか、とも思う。人間はいつもお互いに完全にわかりあうことなんてできなくて寂しいから、表面だけでもわかりあったふりをしよう。だなんて、一番寂しくないだろうか。私はそうは思わないけど、あなたの意見をわかりたいし、わかりたいから説明してほしい、という態度の方がよっぽど誠実なのではないだろうか。

そんな綺麗ごとを並べて何になる?平和に過ごすのが一番、という人もいるかもしれない。私もそう思っていた。でも、何でかは上手く言えないけれど、そうやって考えることを放棄したらいけない気がするんだ。私もそうだし、日本であまりにも考える機会の少ない教育を受けてきたら、考えることってすごく面倒で、考えなくても生きていけるのならそっちに流れてしまいたくなると思う。でも、それって人間関係に対する思考の放棄だ。そして、放棄された対象に対する冒瀆だ

こんなセリフを聞いたことがある。「恋人関係なんて、お互いに本当のことなんて何も言わなければ続くもんだよ。」「男の方が言いたいこと我慢すれば続くよ。」続くもんか。我慢してるんだから。そんないびつな関係性が続くわけがない。我慢されたら相手が我慢しているかどうかなんてわからない。わからないものは認識できない。もしお互いに我慢していたら、(相手の不満は見えないので)自分ばっかり我慢している、となるだろうし、片方が我慢していたら言いたいことを言っている方は「こいつ不満全然言わないな、これでいいんだな」と思うし、我慢している側は「こんなに我慢しているのにどうしてこんなに文句を言われなければならないのか」と不満をため込むことになるだろう。

という思考に基づいて、私はこと「とりわけ近しい関係性」においてはなるべく正直に生きることを決めている。しかし、ここにも難しさはある。そこに私が「正直は美徳なのか」と問いたくなる理由がある。

まず、正直になることによって引き起こされる論争は全く美しくない。正直になることは、相手を褒めることでもあるし、相手に対して指摘することでもある。正直に褒めるのはすごくいいことだ。しかし、正直に指摘する(それは客観的に悪い面である場合も、主観的に「やらないでほしいこと」の指摘だったりもする)ことは、時に論争や、あまり生産的でない喧嘩めいたものを生み出す。次に、この点が問題なのだが、一度指摘をしだすと、手が止まらなくなる。人間は完ぺきではない。完璧にはなれない。だから、気になったことを指摘するわけだが、気になることはどんどん、日々の細かいことから大きな問題まで多岐にわたるようになる。そうすると、争う回数は多くなるし、相手に対し最初は効力を持っていた指摘が日常化して、効力を持たなくなる。考えてほしいから指摘していたはずなのに、気が付いたら指摘されても何も思わない人間に指摘していく構図が生まれてしまうのである。百歩譲って、争う回数が増えることはよしとしよう。それでも、三日おきのレベルで争っていると、心身が疲弊して今度は自分の方が「あれ、私何でこんなことで争っているんだ」と我に返りだす。こうなってしまうと関係性を築くのは困難だ。

 

つまりどうしたらいいのだろうか。答えは、私も持っていない。その時その時のお互いの関係性に聞くしかないし、聞いたところでわかるはずもない。私は、お互いがお互いの言うことに耳を貸し、それぞれで、時に二人で、お互いの関係性について考えて築き上げていくことができる関係性が理想だと思う。友人関係と呼ばれるものでも、恋人関係と呼ばれるものについてでも、関係ないと思う。

理想の関係性についても、書きたいことが沢山ある。が、今日の所はこれくらいにして、この混迷に満ちたジェットコースターみたいな文章の筆をおきたいと思う。

ヨーロッパ(特にジュネーヴ)留学まとめ

いつもと趣向を変えていこうかなと思います。

私が留学準備をしたときは、「海外留学情まとめサイト」「ワーホリまとめサイト」的なものを見ながらでした。これらのサイト、基本的には見やすくてわかりやすくてとてもよろしいのですが、何が問題だったかというと、基本オーストラリア情報かアメリカ情報かしか載っていなかったことです。いやまぁ明らかに絶対数が多いからしょうがないんだけど。

つまり、ヨーロッパ旅行を一度もしたことがない私は、そこの情報をうのみにしながらおそるおそる準備するしかないわけです。「本当に、これが必要なのか…?」「本当に、これはいらないのか…?」と恐る恐るものを入れたり入れなかったりしました。

そこで私は強く、強く感じました。「色んなまとめサイト見るのめんどくさい!ジュネーヴに行く人用のまとめサイトが欲しい!」需要がないのは重々承知です。

とりあえず、「持ち物(いらないものの指摘含む)」「注意点」「ジュネーヴでやっておいた方がいいこと」あたりをざくっと書いておきます。

ないと死ぬもの

パスポート・海外留学保険証・ビザor滞在許可証・入学許可証・住居の契約書・航空券・現地通貨・クレカ/デビットカード

まぁ忘れたら流石におバカちゃんです。あと必ず手荷物に入れようね。大きいスーツケースに入れると見せられないよ。ちなみにスイスは滞在許可証を現地で受け取るために早めに送っておいたりしますが、スイス着いてからでも申請できます。すごくない?優しい世界。

私はクレカしか持ってませんがデビットカードあると便利らしいです。カードで大体行けます。現地通貨、初期は何かと現金で払う機会が多いので、10万くらい持って行くと大分楽な気がする。でも5万とかあればとりあえず安心。

忘れても死なないけど普通持って行くものたち

①洋服(スーツケース)

ヨーロッパ人、日本人と体の規格合わないから結構持って行った方がいいよ。一年間の留学なら、それなりにオシャレする用の服もないと辛いよ。一年間、長いよ。毎日Tシャツジーンズだとさすがに発狂しちゃう。あと、9月も6月も意外と暑いよ。夏用もちゃんと持ってこ。コート類は後から送ろ。イタリアじゃない限りは届くよ。どうせ部屋着はパジャマだよ。飾らずに行こう。

というわけで、Tシャツ×3、ジーンズ×2、おしゃれ着(入る分)、パジャマ、靴下、秋防寒、冬防寒

は必須。秋防寒は、春防寒にもなるような薄手のコートがおすすめだぞ。靴下はどうせなくなるし、ヨーロッパでもそれなりに買えるよ。水着は、泳ぎたい人は持ってったらいいと思う。なくても困らない。

そして、ヨーロッパに来る大学三年生に問いたい。あなたはロンドンキャリアフォーラムに行きますか。行くならスーツを持って行こう。留学先で買ったらさすがに破産する。ちなみにスーツがないことを理由にロンキャリに行かないことは勿論可能だ。私と一緒に一年延ばそうな。

②下着(スーツケース)

下着一週間分

これ、どことは言わないが貧弱な人はきっちり一週間分持ってこう。買うわけにはいかない。まじで。

③食べ物(スーツケース、乾き物は手持ち可)

どうしても食べたい日本食は持って行こう。あと顆粒だしは便利だしかさばらないぞ。愛してるわ。食費はばかにならないし、食べたいものが食べられた方が病まない。私的お勧めは顆粒だし・カレールウ。醤油はどこにでも売ってるからいらない。カレールウはあると楽だしこっちで買うと死ぬほど高いよ。米は送ってもらおう。

④生理用品(手持ちにも分けて入れておくが基本スーツケース)

言わずもがな。絶対に一年分持って行かないと後悔する。焦るし、ないかもしれないと思うだけで物事が手につかなくなる。絶対ないと後悔する。マジでもってって。私は「どうしよう!足りない!」って言って母親に送ってもらった。こっちの人はカップみたいなのを装着するらしくて、生理用ナプキンの性能が著しく低いのだ。

⑤電化製品系(壊れたら嫌だから手持ち)

スマホ・パソコン・充電器・カメラ・プラグの変換器×4・電子辞書・替え電池

これも忘れる人はいないと思うけど、大事だよ。ノートはパソコンで取りたいし課題もパソコンでするよ。スマホSIMカードは、ヨーロッパに来てから買うんだよ。ちゃんとSIMフリースマホを持って行こうね。ドライヤーとかコテは変圧器がないと使えないから持ってこない方がいいよ。変換器は、スイスだとCタイプっていうヨーロッパどこでも使える二穴のやつがいいよ。でも四角いのはささらないことがあるから、六角形のプラグを買おうね。死ぬよ。

⑥お風呂関係(液体系はスーツケース)

シャンプー・コンディショナー(ボトル一本+詰め替え一袋)、洗顔料(2本で十分)、目元化粧落とし、化粧水、歯磨きセット(旅行用)、旅行セットのシャンプー・コンディショナー・ボディーソープ、タオル、綿棒、歯ブラシ

使い慣れたものを使いたかったら、という程度。あ、でも旅用に使えるちっちゃいボトル、あれは普通に旅行行くときに使えるからいいぞ。化粧水は日本のを使った方がいいと思う。半年で一ボトル使い切るくらいだから、詰め替え用を一個持って行けば十分。持ってきすぎて後悔している(4袋余ってる)あと、地味に目元専用の化粧落としは重宝している。好き。でも持ってきすぎた。これも1・2本で十分。五本も持ってくるのは馬鹿(私)。メイク落としについては、水を使うと肌が荒れるので、現地でシート型のメイク落としを使ってます。シート型はいいぞ。タオルは多めに。泣きながらイケアに走ることになります。

シャンプーとかボディーソープとか、ないと不安なのはわかる。でもね、ヨーロッパの人たちはそこの歯ブラシで歯を磨き、そこのシャンプーやボディーソープで体を洗ってるわけよ。そしてパンテーンニベアもダブもある。持ってこなくていいよ。まじで重いだけ。日本と変わらん変わらん。

⑦化粧品(ジップロックに入れて手持ち)

これは間違いない。とりあえず1セット持って行こう。どうしてもいっぱい使っちゃいそうなやつだけ2つめも持って行こう。あとはいらない。不安になって化粧下地を五本くらい入れたくなるけどまじでやめよう。そんな使わないから。

⑧洗濯系(スーツケース)

洗濯ネット×5・洗剤

多分寮に併設されてるコインランドリーで洗うことになると思うので、絶対に持って行こう。破れたりするし、多めにね。洗濯ネット足りないと、コインランドリーで無駄に二回も洗濯することになって悲しい。本当に悲しいよ。

⑨薬(手持ち)

風邪薬生理痛の痛み止めは多めに。あとは胃腸薬とばんそうこう持ってれば何とかなる。

⑩本(飛行機で読みたいやつは手持ち)

紙辞書、学部留学する人は紙辞書持ち込み可だったりするので持って行った方がいい。日本語の本は持てるだけお気に入りのやつ持って行こう。四冊のうち二冊が学術書とかだと、白目を剥いて「ショウセツガヨミタイヨ…」って叫ぶ動物になっちゃう(私)。あと同人誌読みたい人は持って行った方がいいよ。オタク仲間に貸すと死ぬほど喜ばれるよ。

⑩文房具(手持ち)

ボールペン・シャープペンシル蛍光ペン

別に575にしたかったわけではない。現地で買うと性能が悪いか高いかなので吐血する。

⑩その他QOLを上げるもの(お好きに)

スリッパ・爪切り・耳かき・ポケットティッシュ・日焼け止め・イヤリング・体重計・体温計

何でイヤリングかっていうと、まともなイヤリングが存在しないから。私は未だに持ってこなかったことを後悔してる。ピアス開けてる人には関係ない話だけどね。スリッパは寮の部屋と共有スペースうろうろするときにめっちゃ便利やで。耳かき、あると嬉しいけど、私は綿棒に化粧水をしみこませたもので耳掃除するのが楽な人間になってしまった…。ポケットティッシュは、ヨーロッパだと分厚いから薄いやつを使いたい人は持って行こう。スイス留学組は冬でも山登ったりスキー行くかもなので日焼け止めはある種必須かもしれない。体温計も、病気になった時にあると「俺の…唯一の味方…」みたいになる、いや、ならない。体重計、太字にするようなものでもないんだけど、でも体重気にならん?軽いの持って行こう。

⑪いるとか言われるけどいうていらないもの

サンダル:少なくとも私はいらなかった。あるとオシャレの幅が広がるくらい。

裁縫用具:私縫物できない。

洗濯紐:よく考えたら寮の部屋には干すくらいのスペースはある。

大量の証明写真:証明写真機至るところにあるし、よく写ってないやつがずっとおきっぱになってると「はぁ…ブス…」ってなるよ。

液体について

液体を入れた100ml以下の容器を密閉できる透明な1ℓ以下の袋(ジップロック)に入れたものなら持ち込める。それ以外はスーツケースに。

トランジットについて

したことない人はわかんないかもしれないけど、一時間以内でトランジットは無理です。一時間半も厳しいです。航空券の詳細ちゃんと見てね。あと、空港には二時間前くらいには着こうね。私は何一つとしてクリアできなかったからあわあわしながらトランジット失敗したよ。

ここから先は主にジュネーヴ情報だよ

滞在許可証について

大学が送ってくれるフォーマットにもろもろ記入し、言われた通りの書類を集めて、スイスに行く前に送っておくのが吉。そうしないともらえるまで結構時間がかかってやきもきします。

保険について

大学から、必ず保険に入るようにとめちゃめちゃ言われます。私は東京海上の付帯海外留学保険みたいなやつに入ってました。大学が勝手に契約してくれます。そして、その保険に入ってるよーって示す書類を送れば、スイスのアホみたいにたっかい保険に入らずに済みます。ちなみにその書類を提出するのを忘れたまま半年放置すると「お前、罰金取るぞ!」っていう脅迫文がジュネーヴ州から届いて寿命が縮みます。気を付けてね。私は今提出中だよ(は?)

友達作りについて

なんか学生団体が手伝ってくれるし何とかはなる。でも英語できないと他の国からの留学生友達ができない。現地語できても、現地の学生は「現地語そこそこ喋れる外人」に興味ない。つらい。あとどうせ英語で話しかけられるから、英語できる人いいなぁってなる。

安全面

安全やけど0時前後に一人で出歩くのはあまりお勧めしない。まじで人おらんし。あと膝から上の出てる面積が多いと(ミニスカなど)男性にわざと触られる率が高い。キレそう。でもスイスはいるだけで平和ボケできる国。

費用面

外食はできなくなると思ってくれ。異常に自炊スキルが上がる。洋服は買えるけど高いねくらいの値段。化粧品は安い。交通費は高い。電化製品は日本と同じかちょっと高いかくらい。マックがコスパ悪すぎてみるたびに泣きそうになる。

勉強面

頑張れ。お姉さんは自炊スキルを身に着けている間に単位をばかばか落としたよ。

生活面

深夜の物音に敏感らしいとか、洗濯物外に干しちゃいけないらしいとか色々脅されたけど、深夜にトイレざーざー流しても寮だからへっちゃらだし、洗濯物はもとから外に干せない仕様になってます。あと、スーパーは平日でも7時とかまでしかやってないのでそこは注意です。一回土曜日の18:10にスーパーに着いたら18:00閉店で膝から崩れ落ちて泣きました。でも住んだら慣れるよ。ガチの働き方改革してこうよ。

観光スポット

リヨン(フランス)が近い。トリノ・ミラノあたりも行きやすい。じゅ、ジュネーヴの観光スポット…?…非常に住みやすい街だよ。

マジで言うと、大噴水と花時計と国連しかない。これはガチ。友達が日本から来てくれたりしても、案内のしようがない。非常に住みやすい街だよ…(心の叫び)

 

現場からは以上です。

もしこれ以外の情報が欲しかったら言ってくだされば随時更新します。

「フェミニズム」を考える

皆さんは「フェミニズム」という言葉を聞いてどう感じるだろうか。

「何だかうさんくさい」「過激」「ミサンドリー」「男性を攻撃することで地位向上を狙っている」「感情的で論理がない」…こんなイメージが大半ではないだろうか。

私も事実、未だにそのイメージを「フェミニズム」という言葉から拭い去れずにいる。「フェミニズムの敵は過激なフェミニスト」とはよく言ったもので、穏健派の私からすると正直、なんというか、フェミニズムを名乗らないで活動してくれないかな…と思ったりすることもある。

私は、自分の中にそのイメージがあるからか、自分が「フェミニストである」とはっきり言えたことは一度もない。「フェミニズムに興味がある」「ジェンダー問題を研究したい」ということはあっても、「自分はフェミニストであり、こういう意見があります!」というのは言いづらい世の中だ。

私が「フェミニズム」「フェミニスト」という単語を出した時の反応(特に男性)(というのは、女性は大抵「興味がない/考えたことない」か「共感」みたいな反応が大半なので)は大抵敵意or揶揄の二択である。まぁ多分私が言う相手を間違えているんだろうなぁとも思うけども。

つい最近あった話をしよう。一つ目は、日本人の男子学生に「まぁ、どちらかというと…フェミニストなのかもねっ?」みたいな言い方をした時の話だ。まず、相手は一瞬固まった。その後、少し笑い、そして、「えっ、フェミニストってさぁ…」と、私が何も言っていないのに反論を始める。そして、その意見に対して、私が「それは…」とか「確かにそういう部分はあるけど…」と反論を始めると、「出たwwwご意見www」とか、「うわっwwwこわっwwww」とか言ってちゃちゃを入れてくる。イラっとして話すのをやめると、「ごめんごめんwwwちゃちゃ入れないで聞くわwww」と言いつつちゃちゃを入れてくる。最終的に「ねぇフェミニストさん」とか呼んでくる。そんなに馬鹿にせんでも…とこちらは思うわけである。

彼の態度の中には明らかに「フェミニズム」ひいては「フェミニスト」に対する軽蔑・嘲笑が見られるし、はなから「こいつらは正しいことは言わないのだから聞かなくていいだろ」「こいつらはどうせ感情で動いているんだから真面目に取り合っても無駄」みたいな姿勢が垣間見える。いやモロ見えか。

もう一つは、スイスの友人に「フェミニズムの研究をしたいと思っている」と言ったときの反応だ。彼はかなり建設的で、「最近のフェミニズムは、男性を攻撃するのみのフェーズに入ってしまっているし、あまりよくないと思う」と言っていた。私はその意見自体には賛成だし、寧ろそのように批判的にみる立場の人間は多ければ多いほどいいと思っているので、かなりありがたいと思った。

このように、私の話を聞いた時の反応はかなり異なるものではあったが、二人に共通していた意見がある。それは

「結局男側と女側の妥協で今この世界はできているわけで、変える必要はないんじゃない?」

というものだ。長い時間かけて妥協してきたじゃん。いい面も悪い面もあるけどそれはお互いさまで受け入れていこうよ。という意見だ。いやそれは百歩譲って我々が言うならわかるけどあなた方が言うのは少し違くないか。そして私はこう思う。

「妥協できてたらこんな女性解放ムーヴメント起きないだろーーー!!」

妥協は失敗したんだ。その妥協点は、今の時代には即していない。だから不満やひずみが多く出てきて、今まで声を上げる気なんてなかった数多の女性たちが、声を上げ始めた。だから、またお互いに納得のいくところを徹底的に探そうというのが今のフェミニズムなんじゃないのかなと、思いませんか?

かなり多くの「自称・フェミニスト」たちは、男性の行動を攻撃し、男性の考え方を攻撃し、攻撃し続ける。攻撃は生産性が無い。攻撃されたら攻撃し返したくなるし。落ち着いて、膝を突き合わせて妥協点、という言い方がいいのかはわからないが、そこを話し合った方がよくないか?と思うわけです。

フェミニズムは「どちらかの性」の問題ではない

フェミニストは男ばかり攻撃する、とか。男はフェミニストになれないんだから議論に入ってくるな、とか。いやいや、みんなの問題だからね、と思わざるを得ない。さらに言うなれば、トランスだろうとなんだろうと、関係ない。みんな、対象。だってこれは扱われ方の問題だから。自分が男性/女性(の見た目をしている人)をどう扱うか、という問題。そして、男性/女性どちらかの見た目として見られている自分がどう扱われるか、という問題。

そして、男性をどういうものと認識し、女性をどういうものと認識するか、というのは根強く、社会的に育まれてきてしまっているわけで、程度の差はあれど、根幹部分はなかなか揺らがない。頭で「男女は平等だ!」といくら考えていても、「男にしかわかんない感覚だよなぁ」とか「これだから女の子は感情で話しててロジカルじゃない」とか、ふと自然に出てくる感想が、もう自分の中に根強く凝り固まった「男女差別意識」をベースとしてしまっているわけである。

これって、男性にしかない問題でも、女性にしかない問題でもなく、人類全体が持つ問題なわけだ。そして、すべての人が、男性も女性も、フェミニストもセクシストも、上野千鶴子もみんな、自分の根幹に差別意識があるということを常に意識しなければならない。自分の根幹に差別意識があることを忘れて議論を進めようとすると、表面上の、具体例を攻撃する二項対立の構造になってしまう。だから、お互いの意見を聞きあいながら、そして自分の中にある性差別意識がどういうものなのかを理解しながら話を進めていったほうが建設的だと思う。

これ、意外と難しい話で、「そんなこと考えているわけない」「そんなの当然だ」と思っているところから見直していかないといけない。たとえば、「女性は出産をするから、子供に対する愛情は自然と湧いてくる」とか。本当にそうだったら、ネグレクトも虐待も存在しないだろアホかと思うわけだが、「愛情深い母親像」といういかにもなイメージがそれを邪魔するわけだ。そういう、常識的に考えて、「そんなわけないじゃん」というところに、そこにこそ、むしろ、自分の中の根深い男女差別意識が存在するんじゃないかなと思う。

フェミニズムのイメージ

個人的に、フェミニズムは単語の選択で非常に損をしていると思う。「イズム」は主義・主張である。あらゆる研究をベースとした主義主張を行っている学者が多くいるにもかかわらず、「イズム」部分が邪魔をし、「過激な主義主張」というイメージをなかなか拭うことができていないと思う。また、フェミニズムに関わる言葉で、「女性解放」という言葉もあるが、これは非常に良くない言葉だと思う。勿論男性側からも「俺らがいつ拘束したよ?」とか言われるわけだし、何よりも、女性が解放「される」という受身形なのが非常に気に食わない。何で解放「される」なわけ?女性自身が中心になって起こしていくムーブメントでどうして受け身なの?とついつい腹を立ててしまうわけである。

ここでもう少し適当な言葉を捻出できたら素晴らしいだろうとは思うが、全く思いつかないので、思いつかないなぁ。誰かいいのあったら教えてね。とだけ言っておこう。

とにかく、フェミニズムと一口に言っても、あらゆるフェミニストがいるし、その主義主張もばらつきがあり、中での対立も当然ある。だから、もう少し「フェミニズム」という言葉を、顔をしかめることなくニュートラルな気持ちで聞いていただきたいのである。

最後に:お気持ちとして「媚びる女」「ぶりっこ」について

これはフェミニズムの本筋とはずれるのだが、「フェミニスト」と呼ばれる人たちに非常に多い主張として、「媚びる女は敵」「ああはなりたくない」みたいなものがある。それから、一見敵意を見せてはいないが「媚びている女の人たちは、社会にそういう生き方を強いられているんだよ。かわいそうだね。」という意見。

別にどういう意見を表出しようと自由だが、私には一つ危惧していることがある。それはいわゆる「媚びる女性」「ぶりっこ」と呼ばれる女性たちが、フェミニズムが前進していくことによって生きづらくなってしまうのではないかということである。この世界は、グローバル化、多様性を標榜して日々進み続けているのではないのか。(といいつつグローバル化とかいう単語は嫌いだけど。)なのに彼女らの生きづらさを増やしてどうする、とつい思ってしまうのである。マイノリティもマジョリティも生きやすい、せめて生きづらくない世の中に向かっている流れなのではないのか。私は、少しでも多くの「今」生きづらい人たちが生きづらくない世の中になればいいと思って情報、いや主に意見を発信しているが、それは「今」うまくやっている人たちの生き方を否定し、「あなたは間違っている。かわいそうに。」とレッテルを貼るためではない。一つ一つの過程において、一人でも多くの生きやすい人を生み出していくためではないのか。

そしてもう一つ。「彼女らは押し付けられているんだ、かわいそうなんだ」というのは一見共感を示しているようで全然違う。彼女らには「自分で選択する能力がないのだ」と、一部の男性が女性に対してそう思うように、下に見ているだけなのだ。勿論、そういう選択をやむを得ずしている女性たちもいるかもしれない。と同時に、自らはっきりと「媚びを売って生きていく生き方って、ある種かっこいいじゃん」と感じ、信じ、選択している女性たちもいると思うのだ。だから、「かわいそうだ」という意見は、優しさのオブラートに包んだただの悪口だ。それならまだ、「私はああいう生き方は嫌い」という意見の方が建設的である。

同じ問題として、この先、専業主婦として生きる女性たちがどんどん生きづらくなっていくように思う。もしこのままの状態で、考え方で、フェミニズムが進展してしまったならば。結婚して専業主婦になりたいという友達に対して、「専業とかwww絶対無理www」と言ったら、相手は傷つくだろう。それは、フェミニストたちが必死に抗議している、男性が、女性の選択をあまりにも尊重しない・揶揄する、という流れと似通った構造ではないだろうか。女性は劣っているから男性が誘導して「あげる」。フェミニストは自分がひどい状況にあることをわかっていないからフェミニストが誘導して「あげる」。そんな構造を再生産していったい何になるのか。私は少しでも、自分を幸せにする過程において、色々な人の幸せづくりも手伝いたいと思うし、自分も行動しながら、この世界の行く末を見守っていきたい。いや突然何の宣言。

相変わらずブログなのに小学生の感想文みたいなまとめ方でほんと草。反論・議論・その他コメント待ってます。

日本の「いじり」文化

窓の外はホワイト・アウトだ。

買い物やら雑務やらを旅行の合間に終わらせてしまおうと思っていた私の今日の計画は早くも崩れた。まぁ、計画は倒れていくものだというのが常の学びではあるのだが。

ぼんやりとお正月特番を見ながらベッドで旅行の疲れを癒そうとぼーっとしていた。ツイッターを開いて出てきたのは、男性目線の性加害にまつわる記事を読みながら、ぼんやりと色々なことを考えていた。何でこんなことが起きてしまうんだろう、とか、何でこんなに社会は歪んでいるんだろう、とか、結局いつも社会の問題ではなく人間関係の(つまり個の)問題として片付けられてしまうなぁとか。

お腹の中がぐるぐるしていて、思う所がまとまるかもわからないが、とにかく何か書きたいと思う。(まとまらなかった結果男性加害の話にはほとんどならなかったことを予めご了承願いたい。)

私が常々好きになれない日本の風潮がある。それは、「冗談でかたづける」という風潮だ。本気で怒っている相手をいなす、なだめる手段として多くの人が用いるし、用いられたことがある人もいるだろう。文化だから、といわれたらそれまでだが、それで会話を打ち切ろうとするのは少し待ってほしい。それは思考停止にすぎないから。とりあえず、相手の意見を聞いて、できたら考えるところまで行ってほしい。反対でも賛成でも、何でもいい。考えてほしい。

私自身、「冗談で片づけ」たことは何回もある。特に中学生の頃とか、本当に面白いと思って好きな友達にいたずらしたりしていた。嫌がっていた子もいたし、面白がってくれる子もいた。からかって怒る子に対しては、「え、ノリがわかんないなんてつまんないね」みたいな扱いしかしていなかった。でも、大学に入ってから、明らかに自分がいじられる立場になることが多くなった。背の低さ、女性性、東大生であること…色々な要素が私をいじられ役にしていた。その一つ一つの要素は、私にとって恥じるべきものでもなんでもなかったので、最初は特に気にしていなかったし、「みんな私のこと大好きだなぁ(のほほん)」みたいな感じで生きていた。

状況が変わったのは、二つのサークルに積極的に顔を出し始めた頃だった。

まず一つお断りしておきたいのだが、私と同じサークルに入っている方たちで、この文章を読んだ方。多分どの話をしているかわかると思うけど、私はサークルを告発したいわけでもないし、誰かが嫌いだとか、サークルが嫌いだとか、そういうことを言いたいわけでもないです。単純に、サークル活動を通して、狭いながらも、社会の一つのゆがみを感じてしまったというだけの話で、誰が悪いというわけでもないです。伝われ。後輩たちも、いや今になってこんな公開して言わんでも、と思うかもしれないけれど、私は単に、一般に流布する歪みの、わかりやすい例としてこのサークルの話をするだけです。今から書くことで嫌われちゃうかもしれないけど、みんなのことは大好きです。言い訳が長くて見苦しいな。まぁいいや。前置きはこれくらいにして、続けます。

「東大女子」というものへの扱い

私が入ったサークルの、強さの基準は「面白さ」でした。ものすごくぼかして言うと、私が本当にやりたかったことは演劇系のサムシングで、実際の活動内容とは大分離れていたので、当初から私は「面白さ」を追求することに興味がありませんでした。更に言うと、インカレサークルで、私の学年では、私とあと二人の女子を除いて、他は全員他大生の女の子たちでした。男性陣にも他大の方はいましたし、そこそこの多様性は保たれていたと思います。ただ、3つのパートに分かれていて、私のパートには、ほとんど来ない他大の女子二人と私以外に女子はいませんでした。俗に言う姫状態というやつですね。

私自身は姫とは程遠い女子だったし、東大女子だったのもあってか、普通に機材運ばせられたりとかしましたし、体力面の扱いは男子とそこそこ同等に扱われ、ある種私もそれを誇りに思っている面があったりはしました。同じように仕事をし、同じように評価される。あれですね、男社会に生きる女の喜びみたいなのを知ってしまったのかもしれません。でも、それって結局歪みが反映された形でしかないんですよね。

加速するいじり

私が「男子と同等に扱われてるぅ」とか言ってにへにへしている間に、状況は少しずつ悪化していました。先ほども言いましたが、私のサークルでの評価基準は「面白さ」でした。私は下ネタもあまり好きではないし、男子テンションのスピード感と上手くかみ合わず、非リア芸くらいでしか笑いを取れない状況が続いていました。女子高で面白いと評価されていたものと、この「社会」で評価されるものは全然違う。自分なりにかなり悩んでいましたし、正直「もうやめたいなぁ」と百回くらい思いましたが、それでも、「一度始めたものを簡単にやめるのは良くない」と自分に言い聞かせて何とか行っていました。そんな状況で面白いことが言えるわけもなく自信を喪失し…と永遠に思われる悪循環を繰り返していた時に「ほくちゃん面白くない」いじりが始まったわけです。

「面白い」ことだけが評価基準でなかったならば、そんなことを言われても大して気にならなかったかもしれないです。でも、その時の私は「次の活動ではどうやって笑いを取ろう、どうやったら面白いと言ってもらえるだろう」とずっと考えていました。でも、いくら考えても無駄なんです。だって「ほくちゃん面白くないいじりが面白い」という流れが既にできているのですから。ただの流行り。ただの遊び。ただのいじり。でも、どうしてもサークルに行かれなくなった私は、友達と観劇しに行った先で、幕が開く直前に、「そう、さっきあいさつしてくれた人たちサークルの人で…」と言いながら号泣してしまったわけです。

いじっているだけ、いじられているだけ

今考えたら、あの時別に行かなくなってもよかったとは思うんです。逃げも一つの選択肢だよ、と言いたい。私は、自分が人前で号泣するほど辛かったと思っていませんでした。涙が出た時にも、自分がまさか「いじられているだけなのに辛い」なんて思いもしなかったし、だから自分が泣いている理由もよくわかりませんでした。いじっている人たちと同様、私自身も、「いじられているだけだ」と思って、自分の中の傷に向き合おうとしていなかったのだと思います。

どうして傷に向き合えなかったのか。それは、私自身が「いじられているだけなのに真剣に取り合うなんて、ノリの悪いつまんねー奴」という考えを持っていたからに他ならないと思います。

私は、自分のことを、弱い女だとは微塵も思っていません。だって弱くないもん。でも、それでも、一度傷つき、その傷が修復される間もなく、何度も何度も抉られたら、自分が認識しているよりも大きい、治りにくい傷になってしまうんだと思います。

以下、分析です。

分析

1なぜいじられたのか

先ほども言った通り、身長が低いことはかなり関係していると思います。背が高いいかついグラサンのおっさんをいじりませんよね。見た目が怖くないと、いじられやすいんだと思います。次に、東大女子であること。女子をいじりたい、でも他大の女子には失礼になるし、東大女子なら自分側だし、なによりも「東大女子で強いから」多少いじっても傷つかないだろう。みたいな。傷つきます。人間なので。

2いじりの内容

いじりの内容は、「面白くない」みたいなものから、女性性を求めるものまで様々でした。普段の扱いは機材運びながら「おも」って言ったら、「か弱い女子ぶってんなよwww」みたいな扱いだった割に「女子が必要だから番組に出て」とか、「ほくちゃんは女の子だから、女の子にこうされたら男子は喜ぶから」とか、いやこれはいじりじゃなくて扱いの問題か。まぁとにかく、セクハラまがいのいじりもする割に、男としての働きも要求してくると。誰もそれを止めないし何なら面白がっている。なるほど、こういう男たちが妻に仕事も家事も全部させて「俺のかみさん、俺が仕事忙しくて疲れてるのに癒してくれないんだ」とかいうんだろうな、みたいな社会の病巣を…これは話飛びすぎか。

面白がってるのがさ、意味わかんなくてきついよね。面白がられてるから「やめてください」とも言えないし。

3結局何が言いたいかって言うと

これって、人間関係の問題全般に言えるんじゃないかなって思いまして。恋人に、真剣な話として提起しているのにまともに取り合ってもらえない、とか。セクハラの問題とか。いじめもそうだし。相手がセクハラだって思ったらセクハラだ、とか、相手がいじめだって思ったらいじめだ、とか。それだと確かにわかりにくいんですよね。とてもわかりにくい。しかも、されてる側も「冗談を真剣に取り合ってる」と思われたくなくて笑顔で接するから、余計にわかりにくい。

でも、だからこそ、私はわかる人間でありたいし、この文章を読んだ少しでも多くの人に「あ、この人、笑顔だけどもしかして辛いのかな」っていう風にちょっとでいいから気にするようにしてほしいし、どうせなら、「まぁ、私/僕/俺は〇〇のこと、本当にそうだとは思ってないけどね」って言ってあげてほしい。言ったところで不幸になる人はいないし、それだけで誰かを幸せにできたらめっけもんじゃない?そして、そういう人が「正直、本当はいじりきつくてさ…(笑)」と笑いながらでも話しかけてきたら、「え?あんなんいじりじゃん(笑)」とか言わずに、「そうだよね、私/僕/俺もきついなとは思ってたんだよ。」って優しく受け止めてあげてほしい。いじられキャラの人間の言葉は、グループで話していても、誰からも言葉を返されず、受け止められずに宙ぶらりんになってしまうことが多いから。受け止めるだけで、心は軽くなるから。

思いの丈をつづったら、思いのほか長くなってしまいました。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。